子どものいる生活

息子のこと、元夫のこと、私の生活のあれこれ。順風満帆。

ヒサコさん

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子どもの頃、確か私が小学2年生の頃までは実家にお手伝いさんがいた。

そのころのうちは、祖父、祖母、父、母、叔父、私、妹、弟と8人家族で、しかも祖父も祖母も父も母も叔父も仕事をしていたので、家事育児を担う人間が必要だったのだ。

お手伝いさんは、ヒサコさんと言った。

ヒサコさんは、戦争孤児で10代の頃からお手伝いさんとして働いてきたらしい。

みなヒサコさんを「ひさこ」と呼んだ。家族も近所の人も。

私はヒサコさんが苦手だった。物心ついた時から家にいて、食事の世話、身の回りの世話してくれたし、遊んでくれたのに苦手だった。

ヒサコさんも私が苦手だったと思う。ヒサコさんは私にイライラしてたし、それを隠そうとしなかった。

私はヒサコさんが作る料理が嫌いだった。チャーハンもナポリタンもインスタントラーメンも彼女が作るとべちゃべちゃだった。ソースとかマヨネーズとかケチャップとかの調味料が大量にかかっていて味が濃くて舌がバカになりそうだった。

その不味い料理を私は嫌々口に運んだ。とろとろとろとろとメンドくさそうに。

「もっと早う食べな口の中でうんこになるで」

ヒサコさんは必ずそう言った。

怒ってるというより、うまい冗談を言っているという口調で。

そしてニヤリと笑い。私の胸をぽんぽん叩くと「いっぱい食べなやな、おっぱいも大きくならへんで」と言った。

食卓についてる家族がどっと笑った。

ヒサコさんは嬉しそうだった。得意げだった。その表情には媚びがあった。

彼女は彼女なりにここでうまくやるために努力をしてるのだろうと思った。

幼児の胸をからかう冗談も彼女なりのうまくやる術なのだろうと。

そう思いながら見下ろした自分の胸を覚えている。就学前だったので、当たり前だけどそこは平坦で、ブルーグレーのコーデュロイのワンピースに包まれていた。

ブルーグレーのワンピースの裾には汽車の刺繍があって、それはかわいくてお気に入りのワンピースだったけれど私はその日を境にそれを着なくなった。

 

ヒサコさんには自分の部屋があった。そこは4畳ほどの畳の部屋で、畳は古く陽に焼けていて壁は砂壁だった。

そして壁の前にはずらっと缶コーヒーの空き缶が並び、天井まで積み上げられていた。

それは異様な光景だった。

「あんたはもう小娘やな。もう子どもとちゃう小娘や。男が追いかけてきよるで。あんた男手玉にとったらあかんで。はっはっはっは」

積み上げられたコーヒーの缶、仄暗いヒサコさんの部屋、私の顔をマジマジと見ながらタバコを吸うヒサコさん。

陽気なヒサコさん、粗野なヒサコさん、小指の爪だけ長いヒサコさん、生きるために時には媚びをうるヒサコさん。

親には「あの人がいないとうちは困るんやからな。絶対ケンカしたりしたらあかんで」と言われていたので、私はヒサコが何を言っても怒らなかった。

ヒサコさんは叔父が結婚して家を出て、祖母が事業を他人に渡したのを機にうちを辞めた。

ヒサコさんが担っていた家事育児は祖母がするようになり、しばらくするとヒサコさんのことは誰も話さなくなった。

同じ家に住み毎日一緒にいたのに家族じゃなかったヒサコさんは今どこにいるのだろう。

今も小指の爪だけ長いのかしら。

今もべちゃべちゃのナポリタンを作っているのかしら。

ヒサコさん、私は缶コーヒーがなんだか怖くなってしまって、今までに一度も缶コーヒーを飲んだことがないです。

 

通り過ぎるだけ

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パンっと眠りから弾かれたように目が覚めた。

時計を見ると午前4時で、隣では息子がスースーと寝息を立てている。その闇に浮かび上がる白い頬がぷっくりとしていて愛おしい。

 

弟が亡くなってから朝方こんなふうに眠りから覚めることが多くなった。

弟が亡くなってもう2年。眠りから突き放されることに今ではすっかり慣れている。

睡眠が不調なことは、どこか自分が弟の死をまだ悲しんでいる証拠のような気がしてまだ忘れていない、悲しい、まだ大丈夫という安心感をもたらす。

少しだけでも不幸なほうが、悲しく苦しく自分で死んだ小さな弟の近くにいられる気がする。

お姉ちゃんまだ悲しいからね。

寂しくないからね。

忘れないからね。

お姉ちゃんはまだ、まだ、ずっと悲しいから。

といない弟に届かないメッセージを送る。

そんなこと弟は望んでないのに、なんだろうこれ。自己愛か。

私が死んだ後、誰かがこんか風に念じていたら嫌だな。

あの子は自衛隊の船に乗り広い海の上にいても電波が届く限りは私が電話をかけると必ず出てくれた。

どんなくだらない電話でも私からの電話なら喜んで出てくれた。

引っ越しするときはいつもお互いが保証人になった。

家電の取説と一緒にまとめられた賃貸契約書には今も弟の名前がある。もういないのに署名と印鑑がそこにある。

死ねこと、居なくなること、話せなくなること、会えなくなること、この世のどこにも存在しないこと。

不思議。いないなんて。

もう涙は出ない。

2年経ち、私は弟の死に慣れた。悲しいまま慣れた。

ぼんやりと天井を見上げて、昼間に病院で医師からきいた検査結果のことを思い出す。

「ほとんどが良性なんですがね、あなたのこれは、ちょっと悪い顔つきをしてるんですよ」

「悪性というのとですか?」

「まあ、そういうことになりますね」

「入院ですか?」

「ええ、来週また来てもらって日にちを決めましょう。ご家族の方もご一緒にいらっしゃれますか?」

「家族は6歳の息子だけです」

「そうですか。ではお一人でということですね」

「はい、ひとりです」

ひとりです。

私はそう答えるとき少し楽しかった。

ひとりでよかったと思った。

病気でひとりは弟に近いから。

もう眠ることを諦めて体を起こす。窓を細く開けて朝の空気を部屋に入れる。

5月の空気は薄く緑の匂いがする。新緑の匂いは芽吹く命の匂いだ。

 

私が起きた気配を感じた猫がトストスと柔らかな足音を鳴らしてこちらに来る。

なあ〜

「はあい」

なあ〜

「いいこね」

猫が私の布団に入ってくる。

グルグルと喉を鳴らす音が響く。

猫、自由が丘のペットショップで元夫が買った猫。

ペットショップでは他の猫に乱暴するからと動きを抑制するために髭を切られていて、爪研ぎもしないように躾られていた。

それが堪らなくて購入を決めた。元夫は私の意見に反対するということがなかったから、猫はその日から私の猫になった。

私は猫に「あなたはもうなんでも好きにしたらいいの。爪を研いで。家の壁で研げばいい。バリバリバリって思い切り!ここで、ほら、こうしてごらん?

それからね、好きなだけ走って暴れればいいよ。おもちゃを追いかけて、そう、これを私のところに持って来て。そう、上手ね。お利口ね。ポンムはとってもお利口なにゃんにゃんなんだよ。すごくお利口。お利口っていうのはあなたが自由で幸せなこと。ポンムはすごくお利口よ。

たくさん一緒に遊ぼうね。私はあなたのお母さんなんだよ。いつでもたくさん甘えて。いつでもだよ。朝も夜もいつでも好きなだけ。大好き。ずっと一緒にいてね」と言った。

ポンムと名付けた猫は、その通りにした。

壁をぼろぼろにし、走り回り、いつでもどこでも甘えに甘えてトイレにまでついて来て甘えた。そして私以外の人間が自分に触れることを許さなかった。

そう、許さなかった。

許さなかった?

頭にモヤがかかりパンっと眠りから弾かれたように目を覚ます。

うとうとと寝てたみたい。

猫はいない。

猫は3月に死んだんだもの。

甘えてついて来たトイレの中で突然死んだんだもの。

涙がだらだらの流れる。

いない。もう会えない。

 

「ほとんどが良性なんですがね、あなたのこれは、ちょっと悪い顔つきをしてるんですよ」

医師は眉間に皺を寄せて深刻な顔でそう言った。

悪性の腫瘍。

そう。

さよならこんにちはさよならこんにちはさよなら。

そういうこと。

通り過ぎるだけ。

かつて私の頭を撫でた大人たちがもうここにいないように、かつて私と手を繋ぎ歩いた男の人たちがもうここにいないように。皆通り過ぎるだけ。

私も。

だから私は何も少しもこわくない。

ただ、どうか隣に眠る愛おしい子が悲しみませんようにと思う。

 

 

お月見

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十五夜の満月が美しかったのでベランダでお月見をした。

お団子は売り切れていたので、バナナとヨーグルトを入れた小さな丸いパンケーキを焼いて蜂蜜をたっぷりかけて食べた。

狭いベランダに椅子を出して座る。隣には息子。

息子はパンケーキを食べ終わりポテロングを食べている。

夕飯の餃子も胡瓜とトマトのサラダをもりもりと食べた後なのに。

「たくさん食べるね」

「うん!」

誇らしそうに笑顔で頷く。私はこの子が可愛くてたまらない。

「いい子ね」「かわいいのね」「あなたは素晴らしいのね」

親バカで自分でも呆れるのだけど、これらの言葉が日常的についつい口をついて出てしまうのだ。

狂ってるのかもしれないと思う。こんなに我が子がかわいいなんて。

私の母は一度だって私を褒めたことなんてない。

父も。

いい子なんて言われたことない。あるはずがない。

母も父も子どもなんて鬱陶しいという態度を遠慮なく出す人だった。母はよく「私は子どもが嫌い」と言っていたし、でも後継の子を産むのが私の役目だから男の子が生まれるまでは子どもを産まなくてはいけないとも言っていた。

そして私を産み、妹を産み、弟を産んで、子どもを産むのをやめた。

弟は実家と縁を切って、その後自分で死んだ。

よく子どもは邪魔だと言われた。

口答えをすると文句があるなら出て行け、お前に使った金を返せと父に殴られた。

父は剛健な体つきをしていたのでガリガリだった私の体吹っ飛び床に叩きつけられた。

父は何ごともなかったように野球中継を観て、贔屓のチームが勝つと機嫌が良くなり、ニヤニヤしながら「大丈夫か。お前も女やったらもっも可愛げがないとあかん」と言った。

ビールを飲んで赤らんだ顔、母は一度も箸を止めずに夕飯を食べていた。ガツガツと形容しても差し支えない勢いで。あの時の母の口のまわりについたマヨネーズ、ぶくぶくに太った体、私を見る(お父さんを怒らせるな)というイラついた目。

こんなことが月に2、3度はある生活だったけれど私はそれが当然だと思っていた。私が悪い子だから出来損ないだから仕方ないのだと。今もどこかでそう思ってる。

 

だからこんなに自分の子どもが愛おしく感じることが間違っているように感じる。

私は子どもを愛してる母親になりたくてこの子を愛おしく思おうと必死なのかもしれない。

不安が湧いてくる。

私は自分がなりたかった母親像を演じてるだけなのではないか。

どんどん湧いてくる。

考えても仕方がないこと。

もうやめよう。

「苦難は色気になるけれど、苦悩はだめ、険しい顔になるから、だめよ」

美容皮膚科の医院長が私の顔にヒアルロン酸を打ちながら言ってたではないか。

苦悩は無駄だ。

やめよう。

過去に囚われて馬鹿みたい。

月は冴え冴えと美しい。

隣にちょこんと座る息子の横顔が、口の周りについた菓子のカスまでもが胸が苦しいほどに愛おしいのに何を悩むのか。

季節の変わり目は過去を思い出しすぎる。

「お母さん、月って銀河が発生してまだ少ししか経ってない頃に地球に火星が衝突してできた破片なんだよ」

息子が空想なのか事実なのかわからない宇宙の話をしている

「そうなの」

「うん。お母さん、宇宙はいつかなくなるでしょ。その後に何が残るかわかる?」

「わからない」

「何もないよ。真っ暗。またひずみが発生して宇宙ができるまでは真っ暗。でもね、大丈夫。僕のお母さんのことが好きって気持ちとか大事なことは見えないけどずーっとある。見えないだけ。だから全部が消えても怖くないからね」

「そうなの?」

息子はとても賢いので私にはよくわからないことをたくさん話す。

「うん」

「怖くないなら、よかった」

宇宙のことはよくわからないけれど、息子が私を好きでいてくれるなら、それはとてもうれしい。

草むらの夢

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夢の中でこれが夢だとわかっている。そんな夢を見た。

「これは眩しいような緑ですね」

浴衣を着て縁側に座り死んだはずの前夫が私に言った。

目を向けると確かに庭に雑草がぼうぼうと茂りその緑は眩しいくらいに鮮やかだ。

「ほんと」

私は答えた。

前夫は微笑んで私の手の甲をそっと撫でた。

前夫は私の手が好きだった。「小さくてかわいいから」と。小さくてかわいいから好きなんて、なんて原始的な感情なのだろう。

小さくてかわいい非力なものを愛でたいという欲求をどうぞ私で満して。私を非力だと庇護の対象だと思っていて。

私にはそれが心地いい。

それくらいしか私はあなたにあげられないから。

本気でそう思ってた若い日。遠い前夫と過ごした日々。

 

草の匂い。

夏の匂い。

あれ、今って夏だっけ?

そういえば、蝉の声がしない。

蝉、そう私の子どもが大好きな蝉。

私の子ども。

そう、私には子どもがいる。

「先生、私、子どもを産んだの。もう5歳になるよ」

そう言って、前夫の方を見ると彼はすっかりお爺さんになっていた。

さっきまでは40代くらいのおじさんだったのに。

お爺さんはパジャマ姿でこちらを向き目を瞬かせた。

「子ども?それはおめでとう」

にっこりと笑って言う。

よそ行きの生徒に見せる用の先生然とした笑顔だ。

この人はプライベートではあまり笑わなかった。学生の前で良い先生を演じている分自宅では横柄だった。

「あ」

お爺さんになった前夫が着ているパジャマに見覚えがあった。これは私が贈ったものだ。

私がお見舞いに持って行き渡した柔らかなネルの紺色のパジャマ。

「ありがとう。あなたからまたプレゼントをもらえるなんて病気になった甲斐があったよ」とふざけて言っていた。

この人はこれを着て亡くなったと人伝にきいた。

風が強く吹いた。

背丈の高い草がざわざわと揺れる。

「これは眩しいような緑ですね」

前夫がまた言う。

「ほんと」

私が答える。

夢だとわかっている。

この人はもういない人。

「あなたが幸せなら僕はうれしいです」

不意に前夫が言うので驚いた。

なんて都合が良い夢だろう。

そんなこと前夫は言ったことない。

そんなこと言わない。

だいたい私は今、離婚するしないで揉めていてとても幸せとはいえない状況なのに。

だから、だからこそ誰かに幸せを願われたいのだろうか。

私は弱いな。

私は弱くて小さくて非力だ。

 

「これは眩しいような緑ですね」

前夫がまた言う。

お爺さんの姿で、何も見ていない目をして。

なるほど庭の緑は燃えるようだ。

さっきより一層鮮やかになり轟々と揺れている。

「ほんと」

私は答える。

それにしてもここはどこだろう。

古びた平家の一軒家の縁側、奥に目を向ければ仄暗い畳の部屋が見える。

「ここはどこ?」

前夫に尋ねてみる。

「君がいつか死ぬ家だよ」

私は目を見開いて前夫の顔を見たけれど、彼の表情は静かなまま、白濁した目は何も見ていない。

「そう」

驚いたけれど、そうかもしれないと思った。

これは夢だけど、そうかもしれない。

死はどんどん近しいものになってくる。

「またおいで」

前夫が言った。

白濁した目の前夫はさっきより一層お爺さんになったようだった。

小さく縮んで頭髪も僅かしかない。

生きていたらこんなふうに歳をとったのかもしれないなと思った。

「うん」

そう答えて、縁側から降りた。

ざぶんと水に飛び込むように草むらの中に入る。

草の匂いが鼻をつく。

胸の高さまである草がチクチクと皮膚に刺さり痛い。

なんで私ここにいるのだろう。でもいいや。なんだか楽しい。草むらの中はひんやりしていて気持ちいい。

草の中でクルクルと回ってみた。

シャっと草が擦れて半袖から出た二の腕が切れる。血が滲む。

血が出た腕をみると酷く筋張っていて皺々だ。

不思議に思い自分の体を見下ろすと体の全部が筋張っていて皺々になっていた。

お婆さんになっていた。

縁側から前夫が私の名前を呼ぶ。

答えようとするけど、草の丈がどんどん伸びて前夫の姿が見えない。

緑は燃えるように鮮やか。

 

 

 

声が出なくなる

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「過去の僕の依頼者の相手方にもいましたよ。自殺した人。追い詰めた罪悪感はないですね。仕事ですから」

弁護士が笑顔でまるで冗談でも言うように話す。その口ぶりはどこか誇らしげでさえある。

武勇伝のつもりなのかしら。

「死んでくれた方がいい人はいますよ」

「あなたの相手方のおうちに、来ましたよ〜、とお話しましょうと言って今から僕が行くこともできますからね。あなたが望むなら。追い詰めてあなたの望む条件をのませますよ。警察を呼ばれても僕は弁護士だから大丈夫です」

身振りをつけて楽しげに話す。

この人は夫のことを必ず相手方と呼ぶ。ご主人とか旦那さんとは呼ばない。

「私は、私は、夫と争いたいわけではありませんから」

はははははははは

弁護士のマスクの奥からは高らかな笑い声。

空調の効いた弁護士事務所の小部屋。口をつけてない桜の花びらの描かれた白い湯呑みの中には薄緑のお茶が並々としている。

私には、何が面白いのかわからない。

弁護士は笑い終わり今度は黙って私の目をじっと見ている。依頼者との信頼関係を大事にしているとホームページに書いてあるから信頼関係を大事にしている態度をとっているのだなと思う。

 

「あの、あの…」

話しを進めようとして自分の声がひどくかすれていることに驚く。

喉が詰まったように声が出てこない。

なんだか息が苦しい。

自殺という言葉が胃のあたりにへばりつき硬くなり重くなり喉を塞いでいる。

重い痛い苦しい。

「どうしました?」

感じの良い笑顔で尋ねられても答えられない。

「すみ、すみません…ちょっと体調が…」

弁護士の表情が一瞬曇る。

「ああ、そうですか、では仕方ありませんね。また夜にzoomでお話ししましょうか」

せっかく打ち合わせの予定を入れたのに、今話せよと思っているのだろう。

弁護士の口調は堅くなり態度は急に冷たくなった。

信頼関係を大事にする態度はどうしたんだよ。

それに夜は子どもがいるから対応できないと何度言ってもわかってもらえないのもやめてほしい。

(以前も申し上げた通り子どもがいるから19時は20時は無理なんです。

すみません。)

そう言おうとして口を開けたがもう掠れた声も出なかった。

ぱくぱくと口を開けて喉のあたりの筋肉を絞る。

出ない。

声がでない。

自殺

自殺

自殺

弟の顔が浮かぶ。

優しい子。

もう歳をとることのない若い笑顔を思い出す。

この人は弟と同い年だ。

涙がにじむ。

「お辛い気持ちわかります。私は離婚を専門に扱ってますから。ご依頼者様のお気持ちは痛いほどわかります」

そう言えば、依頼者のお気持ちに寄り添ってともホームページに書いてあったなと少し楽しい気持ちになる。

私の気持ちがわかる?

私の気持ち。

そんなの私にもわからないのに。

ふふふ

私が掠れた声で笑うと弁護士は安心したようだった。

信頼関係を大事にできてるなと思っているのだろうか。かわいらしい頭のキレる若い弁護士。

 

それにしても世間というのはなんてばかばかしくおかしいのだろう。

ね、本当にばかばかしい。くだらない。

声が出ないなんて。

ああ、また弁護士が手を握る。手を握らないでほしいとグールグルマップの口コミに投稿するぞこのうすらとんかちが。

うすらとんかちばかりの世界で私は、こんなにも満身創痍で私は、いったい何をしているのだろう。

手を振り払い無言で立ち上がって一礼すると弁護士事務所から出た。

出口にあるアルコール消毒液で手を丁寧に消毒した。

夫の骨張って美しい手を思った。

夫は死なないでほしいと強く思った。

死なないでください。

いなくならないで。

 

外は秋晴れ。

たくさんの人がいる。

命を絶たずに生きている人達。

このばかばかしい世界で私の大事なものを大事にしなくてはならないと思う。

でも私の大事なものってなに?

それはまだ私の手元にありますか。

もしかして。

もう。

もう?

早足で職場に向かう。

働いて生きなくては。

 

 

あやむるこころ

 

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小雨が振り出した。開け放った窓から雨の匂いが入ってくる。秋の雨の匂い。ベランダではすっかり乾いたシーツが揺れているのにソファに横たえた体がずっしりと重く取り込みに行けない。

 

私はなんと涙ぐましいのだろう。

たった1人で戦って。

疲れ果てて。

成果もあげられずにこんなに疲れ果てて。

 

ベランダで揺れる2枚のシーツは水色と卵色。

私のと私の子どもの。

私の子どもは今頃保育園でお友達と遊んでいるのだろう。

楽しくしているだろうか。

口に出せない悩みなどないだろうか。

どうかありませんように。どうか。

 

5時の放送が流れる。

「ピンポンパンポーン

早くお家に帰りましょう」

ああ、マスカラを塗ったまつ毛が重い。

弁護士との打ち合わせのために丁寧に施したナチュラルメイク。

 

「馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ

 

あやむるこころ

殺むる心」

 

昔覚えた短歌を空で読む。

「なんでも相談してください」

「あなたの苦しみは私の苦しみ。あなたの喜びは私の喜びです」

そうですか。

では先生、おうかがいします。

私は夫の心を殺めたのでしょうか。

私は夫が言うように頭がおかしいのでしょうか。

教えてください。

先生、

私のことを名前で呼ばないで、手を握らないでください。

それも私に原因があるのでしょうか。

私の頭がおかしいからでしょうか。

嫌だと思うことがおかしいのでしょうか。

汚いおばさんの思い上がりでしょうか。

もう誰にも会いたくありません。

そんなこと言わない。

お金の話をするだけ。

ナチュラルメイクで、微笑んで。

 

シーツが濡れていく。

雨の匂いが濃い。

夫に会いたい。

私の味方だった頃の夫に。

目を合わせ両手を広げれば抱きしめてくれた夫に。

かなわない願いが雨の匂いに滲んで溶ける。

情けない願い事だ。

決して口には出せないような。

もういない人を恋うなんてどうかしている。

 

私はなんて涙ぐましいのだろう。

こんなに情けなく恥ずかしく醜いのにまだ戦おうとするなんて。

これ以上まだ傷つくのか試してみるつもりなのか。

 

シーツを取り込んで息子を迎えに行こう。

笑顔で迎えに行こう。

大丈夫。

雨は上がったみたい。

 

 

 

 

ヒヨス

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ヒヨス、エンジェルトランペット、ハシリドコロすずらんあじさい、彼岸花、毒草について調べている時だけ荒れた感情が凪ぐのを感じる。

息子がお絵かきする隣で図鑑を見ながら毒草を模写する。30色入りのクーピーで丁寧に描く。絵を描くのは子どもの頃からずっと好きだ。

ヒヨスの花びらを薄黄色で塗り、その中に黒い点々を打つ、途端に可憐な黄色い花は禍々しい外見へと変化する。

毒があります。

だから近づかないで。

触れないで。

食べないで。

花は禍々しい外見でそう教えてくれている。

いじらしく身を守るための我が身に宿した毒。

生きるための命を繋ぐための毒。

生き物は生きることはそういうことなのだろう。

だから、ね。

だから、

いざとなれば。

そう、いざとなったら。

いざとって?

いざとっていつ?

もしかしてもうとっくにいざとなってるんじゃない?

もうとっくにそのときがきてるんじゃない?

今が。(今が)

「今?」

熱心に落書き帳に向かっていた息子が不思議そうに私の顔を見る。

「あれ?お母さん今何か言った?」

「言ってたよ。今がって。何が今?何するの?」

「なんでもないよ。独り言。何描いてるの?見てもいい?」

「いいよ」

息子は立ち上がりどうだという風に絵を高く掲げた。

ぷくぷくの赤いほっぺ。私の宝物。かわいい坊や。

見ると、白い紙いっぱいに楽しそうに笑う3人の人間が描かれいる。3人は手を繋いで、周りにはたくさんのハートがある。

ああ、これは、私と夫と息子だ。

目の前がぐにゃりと歪む。

「お父さんとお母さんと僕だよ!」

「じょうずね。楽しそう」

「3人一緒だと楽しいからね」

「うん」

「お父さん、今度は途中で帰らないといいな」

「うん」

「お母さん?泣いてるの?大丈夫?お父さんが帰って驚いたから?大丈夫だよ。またすぐ遊びに来るよ。泣かないで。おばさんだからすぐ泣いちゃうんだろうけど、大丈夫だから泣き止んでよ」

「ありがとう」

「泣き止む?」

「うん」

「は〜よかった。僕お母さんが泣くと嫌なんだよ」

「だよね。ごめんね」

絵の中の3人は皆笑っている。

息子から見た私と夫。

私達は、家族。

息子はお父さんが大好き。

息子はお父さんが大好き。

息ができない。

私は?

私は夫が?

夫は私が?

また感情揺れる。ヒヨスの黒い点が私にあればよかったのに。

私の感情。私の憎悪。私の毒。

私の気持ちはいつも行き場がない。

私が怖い?

あなたが怒らせたのに?

私は、私は全部がわからない。