子どものいる生活

息子のこと、元夫のこと、私の生活のあれこれ。順風満帆。

通り過ぎるだけ

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パンっと眠りから弾かれたように目が覚めた。

時計を見ると午前4時で、隣では息子がスースーと寝息を立てている。その闇に浮かび上がる白い頬がぷっくりとしていて愛おしい。

 

弟が亡くなってから朝方こんなふうに眠りから覚めることが多くなった。

弟が亡くなってもう2年。眠りから突き放されることに今ではすっかり慣れている。

睡眠が不調なことは、どこか自分が弟の死をまだ悲しんでいる証拠のような気がしてまだ忘れていない、悲しい、まだ大丈夫という安心感をもたらす。

少しだけでも不幸なほうが、悲しく苦しく自分で死んだ小さな弟の近くにいられる気がする。

お姉ちゃんまだ悲しいからね。

寂しくないからね。

忘れないからね。

お姉ちゃんはまだ、まだ、ずっと悲しいから。

といない弟に届かないメッセージを送る。

そんなこと弟は望んでないのに、なんだろうこれ。自己愛か。

私が死んだ後、誰かがこんか風に念じていたら嫌だな。

あの子は自衛隊の船に乗り広い海の上にいても電波が届く限りは私が電話をかけると必ず出てくれた。

どんなくだらない電話でも私からの電話なら喜んで出てくれた。

引っ越しするときはいつもお互いが保証人になった。

家電の取説と一緒にまとめられた賃貸契約書には今も弟の名前がある。もういないのに署名と印鑑がそこにある。

死ねこと、居なくなること、話せなくなること、会えなくなること、この世のどこにも存在しないこと。

不思議。いないなんて。

もう涙は出ない。

2年経ち、私は弟の死に慣れた。悲しいまま慣れた。

ぼんやりと天井を見上げて、昼間に病院で医師からきいた検査結果のことを思い出す。

「ほとんどが良性なんですがね、あなたのこれは、ちょっと悪い顔つきをしてるんですよ」

「悪性というのとですか?」

「まあ、そういうことになりますね」

「入院ですか?」

「ええ、来週また来てもらって日にちを決めましょう。ご家族の方もご一緒にいらっしゃれますか?」

「家族は6歳の息子だけです」

「そうですか。ではお一人でということですね」

「はい、ひとりです」

ひとりです。

私はそう答えるとき少し楽しかった。

ひとりでよかったと思った。

病気でひとりは弟に近いから。

もう眠ることを諦めて体を起こす。窓を細く開けて朝の空気を部屋に入れる。

5月の空気は薄く緑の匂いがする。新緑の匂いは芽吹く命の匂いだ。

 

私が起きた気配を感じた猫がトストスと柔らかな足音を鳴らしてこちらに来る。

なあ〜

「はあい」

なあ〜

「いいこね」

猫が私の布団に入ってくる。

グルグルと喉を鳴らす音が響く。

猫、自由が丘のペットショップで元夫が買った猫。

ペットショップでは他の猫に乱暴するからと動きを抑制するために髭を切られていて、爪研ぎもしないように躾られていた。

それが堪らなくて購入を決めた。元夫は私の意見に反対するということがなかったから、猫はその日から私の猫になった。

私は猫に「あなたはもうなんでも好きにしたらいいの。爪を研いで。家の壁で研げばいい。バリバリバリって思い切り!ここで、ほら、こうしてごらん?

それからね、好きなだけ走って暴れればいいよ。おもちゃを追いかけて、そう、これを私のところに持って来て。そう、上手ね。お利口ね。ポンムはとってもお利口なにゃんにゃんなんだよ。すごくお利口。お利口っていうのはあなたが自由で幸せなこと。ポンムはすごくお利口よ。

たくさん一緒に遊ぼうね。私はあなたのお母さんなんだよ。いつでもたくさん甘えて。いつでもだよ。朝も夜もいつでも好きなだけ。大好き。ずっと一緒にいてね」と言った。

ポンムと名付けた猫は、その通りにした。

壁をぼろぼろにし、走り回り、いつでもどこでも甘えに甘えてトイレにまでついて来て甘えた。そして私以外の人間が自分に触れることを許さなかった。

そう、許さなかった。

許さなかった?

頭にモヤがかかりパンっと眠りから弾かれたように目を覚ます。

うとうとと寝てたみたい。

猫はいない。

猫は3月に死んだんだもの。

甘えてついて来たトイレの中で突然死んだんだもの。

涙がだらだらの流れる。

いない。もう会えない。

 

「ほとんどが良性なんですがね、あなたのこれは、ちょっと悪い顔つきをしてるんですよ」

医師は眉間に皺を寄せて深刻な顔でそう言った。

悪性の腫瘍。

そう。

さよならこんにちはさよならこんにちはさよなら。

そういうこと。

通り過ぎるだけ。

かつて私の頭を撫でた大人たちがもうここにいないように、かつて私と手を繋ぎ歩いた男の人たちがもうここにいないように。皆通り過ぎるだけ。

私も。

だから私は何も少しもこわくない。

ただ、どうか隣に眠る愛おしい子が悲しみませんようにと思う。