夕方の4時頃になるとだいたい毎日、雨の日以外はだけど、マンションのうち廊下からカツン、カツンと杖をついて歩く音が聞こえていた。
内廊下に面した寝室にいるとその音はとてもよく聞こえ、ああ、今日もお隣のおじいさんが日課の散歩に出られるのだなとわかった。
猫が亡くなり固くなってしまった愛おしい子の生きていることろなんら変わらないふかふかの被毛に顔を埋めて叫び泣いていた日も、元夫が逮捕されたとの連絡を受けて呆然とした日も、恋人とひどいケンカをして頭から血を流しながら別れ話のシナリオを考えていた日も、時間になれば、カツン、カツンと音が響いた。
自分の人生とは関係ない場所で誰かが規則正しく生活していることは、私にいつも心の平安をもたらしたものだ。
杖のおじいさんには何度かお会いしたことがある。80代後半の柔和な老紳士で、いつも息子に会うと目を細めて「お利口だね」や「あたたかそうな帽子だね」など話しかけてくださった。息子はたいてい照れ臭そうに笑っていた。
年末に杖の音が聞こえなくなりひと月ふた月と過ぎ、床に臥せてらっしゃるのかと心配していたら今日ご近所の方からご自分で命を絶たれたのだと知らされた。
「かわいそうにね。ご家族の負担を気にしてのことらしいわよ」と。
駅前のパン屋のバゲットが前より小さくなったという話題の後に「そういえばね…」とふいにもたらされたその訃報に私は声を失った。
私が黙るといつもそうであるように息子が「お母さん、どうしたの?お母さん、どうしたの?お母さん、どうしたの?」と繰り返している声が耳に膜を張ったように遠くて、早く大丈夫だと、黙ってごめんなさいと、お母さん少し驚いてしまったからと応じてあげなくてはいけないのに1分くらい声が出なかった。
なぜだからわからないけれど私はその日からこんこんと長く眠るようになってしまって、それは今日に至るまで続いている。
暇さえあればすっぽり掛け布団を頭からかけてくうくうと眠る。
10時間寝ても15時間寝ても寝足りることはなく、横になると頭の芯がくーっと眠りに引き摺り込まれ奈落に落ちるかのように眠り、例外なく目覚めは悪い。
何通りもの悪夢をみてもうたくさんと思い目を覚ますと現実も悪夢さながらの様子なので目を覚ます毎に軽く絶望する。
自分ではどうすることもできない不幸な不愉快な理不尽な出来事で思考を占領するのは馬鹿馬鹿しいとわかっているのに考えてしまう自分の脳が憎らしい。
わかっていることは優しい老紳士はもういないこと。
私もいつかいなくなるけれどまだ生きていること。
生きているうちは絶望は続くこと。
しかし、必ず生活中には、生活の中にこそ、絶望をすり抜ける小道があること。
私は毎日の暮らしから目を逸らさないことで自分を傷つけられずに生きることができることを知っている。だから大丈夫。
午後4時になった。
杖の音はしない。
そろそろ息子が帰ってくる時間だ。
私はベッドから起き上がり、キッチンへ行く。
丁寧に手を洗って食事の支度に取り掛かる。
外からは子どもの笑い声がする。
息子がお友達を連れて帰ってきたのだろう。
私は絶望なんてこの世に存在しないみたいな笑顔で息子と彼の友達を迎える。事実彼らを前にすると絶望は飛散するから。