子どもの頃、確か私が小学2年生の頃までは実家にお手伝いさんがいた。
そのころのうちは、祖父、祖母、父、母、叔父、私、妹、弟と8人家族で、しかも祖父も祖母も父も母も叔父も仕事をしていたので、家事育児を担う人間が必要だったのだ。
お手伝いさんは、ヒサコさんと言った。
ヒサコさんは、戦争孤児で10代の頃からお手伝いさんとして働いてきたらしい。
みなヒサコさんを「ひさこ」と呼んだ。家族も近所の人も。
私はヒサコさんが苦手だった。物心ついた時から家にいて、食事の世話、身の回りの世話してくれたし、遊んでくれたのに苦手だった。
ヒサコさんも私が苦手だったと思う。ヒサコさんは私にイライラしてたし、それを隠そうとしなかった。
私はヒサコさんが作る料理が嫌いだった。チャーハンもナポリタンもインスタントラーメンも彼女が作るとべちゃべちゃだった。ソースとかマヨネーズとかケチャップとかの調味料が大量にかかっていて味が濃くて舌がバカになりそうだった。
その不味い料理を私は嫌々口に運んだ。とろとろとろとろとメンドくさそうに。
「もっと早う食べな口の中でうんこになるで」
ヒサコさんは必ずそう言った。
怒ってるというより、うまい冗談を言っているという口調で。
そしてニヤリと笑い。私の胸をぽんぽん叩くと「いっぱい食べなやな、おっぱいも大きくならへんで」と言った。
食卓についてる家族がどっと笑った。
ヒサコさんは嬉しそうだった。得意げだった。その表情には媚びがあった。
彼女は彼女なりにここでうまくやるために努力をしてるのだろうと思った。
幼児の胸をからかう冗談も彼女なりのうまくやる術なのだろうと。
そう思いながら見下ろした自分の胸を覚えている。就学前だったので、当たり前だけどそこは平坦で、ブルーグレーのコーデュロイのワンピースに包まれていた。
ブルーグレーのワンピースの裾には汽車の刺繍があって、それはかわいくてお気に入りのワンピースだったけれど私はその日を境にそれを着なくなった。
ヒサコさんには自分の部屋があった。そこは4畳ほどの畳の部屋で、畳は古く陽に焼けていて壁は砂壁だった。
そして壁の前にはずらっと缶コーヒーの空き缶が並び、天井まで積み上げられていた。
それは異様な光景だった。
「あんたはもう小娘やな。もう子どもとちゃう小娘や。男が追いかけてきよるで。あんた男手玉にとったらあかんで。はっはっはっは」
積み上げられたコーヒーの缶、仄暗いヒサコさんの部屋、私の顔をマジマジと見ながらタバコを吸うヒサコさん。
陽気なヒサコさん、粗野なヒサコさん、小指の爪だけ長いヒサコさん、生きるために時には媚びをうるヒサコさん。
親には「あの人がいないとうちは困るんやからな。絶対ケンカしたりしたらあかんで」と言われていたので、私はヒサコが何を言っても怒らなかった。
ヒサコさんは叔父が結婚して家を出て、祖母が事業を他人に渡したのを機にうちを辞めた。
ヒサコさんが担っていた家事育児は祖母がするようになり、しばらくするとヒサコさんのことは誰も話さなくなった。
同じ家に住み毎日一緒にいたのに家族じゃなかったヒサコさんは今どこにいるのだろう。
今も小指の爪だけ長いのかしら。
今もべちゃべちゃのナポリタンを作っているのかしら。
ヒサコさん、私は缶コーヒーがなんだか怖くなってしまって、今までに一度も缶コーヒーを飲んだことがないです。