子どものいる生活

息子のこと、元夫のこと、私の生活のあれこれ。順風満帆。

精神疾患者の家族への援助の必要性を思う

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よくならない夫。

逼迫した経済状態。

この状況をどう打開すべきか。

最後の一秒まで前を向いている覚悟は変わらずだけど、さすがに疲れています。

 

つい先ほど夫の主治医より電話があり「奥様とお会いしてお話したい」とのこと。夫の病状が悪いようです。

「今からお会いできますか?」とのことでしたが、2歳の息子が39度の発熱で保育園をお休みしているので、行くことはできません。

「今日は子どもが熱を出しているので面談は他の日でお願いしたのですが」と言うと不思議そうに「えー?誰かに預けられないんですかあ?」という主治医。

いやいや、若造、お前が見当はずれな治療をしているからの悪化ではないのかな?

夫にストレスになるから私には、息子には会うなと指導しておいてのっぴきならなくなると私を頼るのかな?

しかし大学生のような頼りない主治医に何を言っても無駄です。

聴けば、双極性障害の患者を担当するのも初めてのこと。

何とかして面談時に医師の変更をお願いしようと思います。

 

それにつけても精神疾患者、とくに正常な認知能力を失った精神疾患者を抱える家族の苦悩たるやですよ。

疲れ切ります。

正直、別居してなければ私も正気を保てなかったと思います。

 

 

先日読んだ『精神科治療の覚書』著中井久夫の中に次のような文章がありました。

 

 家族も次第に、患者にわずかに遅れてではあるが、大切な余裕をまったく失うに至る。家族は自らを守ろうと固くなる。時に困惑の状態から脱しようとして、ことさら破壊的に出る。一般にどのような家族の中にも「相互支持性」の底に「相互破壊性」が潜んでいる。ふだんは「意地悪」の形で、一種の薬味のように働いているだけのことだ。それがのっぴきならぬ、誇張した形で現れる。一方、家族は外部に対して必ず孤立してゆく。そこでとっておきの家族伝来の価値観が持ち出される。(たいていは硬い標語の形で表現される)

<中略>

 そのありさまはほとんど精神病状態である。ふだんの家族がふくむ不協和音を、ボリュームを最大にして鳴らしたものとなっても不思議ではない。

 これが注目すべきものである理由が二つある。

 一つは家族の「精神病状態」が患者の急性精神病状態よりも遅れて始まり、おそらく残りがちなことである。また患者が治っても家族の傷が残る。

第二には、双方の過程の時間的ずれが患者の回復を妨げることである。家族がおかしくなっている時期に患者は回復期にあることが多い。

 これをみて多くの精神科医は「あんな家族なら患者が病気になるのも仕方ない」「患者の方がよっぽどまともだ」とつぶやく。時には家族を説教してますます家族を硬化させたり委縮させたりする。そこで家族が医者を患者もろとも切り捨てようとすることもある。(このあたりで転医を考える家族が多い)逆に医者が患者が思うように治らないことの合理化(いいわけ)に「家族の受容性の低さ」などというレッテルを使ったりする。

 このずれが新しい病理を産む、という見解が向井氏(精神科医 医療法人和合会好生館病院副医院長)の創見であり、卓見であると私は思う。

 

 ここに書かれているように患者の家族をケアすることが、患者の早期回復にも繋がると思うのですが、現実にはなかなか難しいのではないかと一家族として思います。

 

 ただ、ここに書かれているように精神疾患者を支えようとする家族がおかしくなったとしてもそれは当たり前のことだと言うことです。

 患者の家族だからって聖人君子になれるわけではない、自分の態度がいけないと解っていたって長期的に追い詰められれば誰だっておかしくなる。そんな自分を責めてされに追い詰められて自分も病気になってしまう。

 そうなれば共倒れ、家族崩壊。

そうならないように家族のケアに理解がある医師にかかりたいものです。