夜中、赤ちゃんの泣き声が聞こえた気がしてビクンと体が強張り起きる。
耳をすましてみても無音。
幻聴。
もう何百回も幻聴を聞いている気がする。
眠っていてもお風呂でシャワー浴びていても遠くから赤ちゃんの泣き声が聞こえる。
幻の赤ちゃんの泣き声は、起きると消え、シャワーを止めると消える。
ああ、まただ。また幻聴だと思うけれど、10回に1回くらいは本当に泣いてるから気は抜けない。
もう一度耳をよくすましてみる。
冷蔵庫のモーター音だけが低く唸っている。
自室から出て赤ちゃんと夫が眠る部屋の前に行き、ドアに耳を当ててみる。
夫の寝息が聞こえる。
赤ちゃんは泣いていない。
寒い。
頭が痛い。
そっと赤ちゃんと夫が眠る部屋に入り、夫のベッドに潜り込む。
寝惚け眼の夫が「ん?眠れない?」と私のスペースを空けてくれる。
夫にすり寄ると僅かに安堵する。
でもダメだ。安堵してはいないと思う。
まだいける。
まだ大丈夫。
5分ばかりで夫のベッドから抜け出す。
頭が痛い。
足が冷たい。
空が白み始めた。
ほぎゃーほぎゃーほぎゃーほぎゃーほぎゃーほぎゃーほぎゃーほぎゃーほぎゃーほぎゃーほぎゃーほぎゃーほぎゃー
赤ちゃん、泣いてる。
不思議と赤ちゃんが泣くとホッとする。
いつ泣くか、いつ泣くか、と怯えているよりは泣かれた方が楽だ。
夫がもぞもぞと起き出して赤ちゃんを抱っこしてキッチンに来た。
ミルクを作る私を見て少しうんざりしたような顔をして「僕がやるから寝ててくれたらいいのに」と言う。
寝ていられないからここにいるのに。じっとしてられないから辛いのに。
うんざりしないで。
あなたにはわからない。
妊娠の体の変化を体験しないで、出産の不安も体験しなあで、ついこの前までは毎日毎日仕事に行っていたじゃない。
それを私がおかしくなったから在宅勤務を増やしたぐらいで何を偉そうにうんざりしてるの。
今だって、やってやってる、お前の頭がおかしいから仕方なくやってやってるとでも思ってるんでしょう。
あなたはわからない。
赤ちゃんは私の赤ちゃんなんだから。
私の赤ちゃん。
この人に頼ってはいけない。
私ができるところを見せなくては、私はあなたがいなくても完璧にしてみせるんだから、私には育児しかないんだから、社会で評価された上で「私を手伝う」優しい夫のあなたとは違うんだから。
「睨まないでよ」
夫の声で自分が夫を睨んでいたことに気がついた。
「ごめん」
不貞腐れたような声が出て、自分にうんざりする。
わかってる。
夫が悪いんじゃない。
夫は優しい。
夫はとても優しい。
素晴らしい夫、頭がおかしい私。
悪いのは私。
消えたいな。
「今日は午後Skypeで会議に出るからその間は赤ちゃん頼むね」
良き夫。良き父親。良き上司。
「うん」
ぼんやりと頷いた。
馬鹿馬鹿しいことに会議が羨ましかった。
仕事をしていた頃はあんなに嫌いだっただらだらと本質に踏み込まない無益な会議が無性に懐かしかった。
働いていた時の記憶が前世みたいに遠い。
これまで他人が羨ましかったことなんてなかったのに。優しい夫に嫉妬なんて私はなんて卑しいの。
それに醜い。
ブヨブヨに太って、髪が抜けて、肌もガサガサ、ひどいクマ。
こんな顔だったっけ?
「もう一回寝て来たら?僕が赤ちゃんみてるから」
立ち尽くす私に夫が優しく声をかけてくれる。
私はとても卑しく醜いので、あなたに赤ちゃんをみて欲しくないのです。
私だけで完璧に赤ちゃんを育てたいのです。
だってそうしないと私は無価値だから。
これ以上、私を価値のないものにしないで。
頭が痛い。
寒い。
助けて。
これは息子が生後2〜5カ月くらいの1番育児ノイローゼがひどかった頃の記憶。
今は普通に穏やかで夫も息子も健やか。
こんなふうに孤独の檻に捕らえられて、身じろぎもできずにパタパタと冷たい涙を流す夜はない。
夜は明けたのだ。
光は私を照らしたのだ。
でもね、でもあのぞっとするほど孤独でヒリヒリする暗い暗い場所に私が一人でいた事実は消えない。
あの孤独の破片は今の私の胸の内にある。
笑っていてもそこにはブラックホールみたいな闇がぱっくりと口を開けている。
私はその闇を慰め、いなし、前を向く。
私は強くなったと思う。
でも強くなんかなりたくなかったと思う。
母親なんだから甘えるな?強くなれ?そんなのくそくらえだよ。
子どもと閉じ込めないでくれ。
母の持つ闇は子どもを蝕むから、本当にやめて。
孤独の闇には子どもへの愛情では太刀打ちできないんだよ。悲しいけれど。
そんなのお前だけだ、お前が弱いんだ、子どもへの愛情がないんだ、俺のお母さんは違うと言われてしまうかもしれないけれど、愛情なんていうものはおしなべてそんなに強固ではない。とても脆い。
母の愛は特別。母性本能。母の愛は強い。強くあるべき。
本当にそうかな。
そんなのファンタジーじゃない?
少なくとも私は、産後、母性本能とやらに助けられたことはただの一度もない。
狂人紙一重の状態になった時に私を助けたのは、私と息子を助けたのは、「この子の親としての責務を果たさなくて」という理性、そして、今私のメンタルは産後のホルモンバランスの乱れと睡眠不足によるものであるという周産期医学の知識だ。
理性と知性。
人生を切り開くのにいつだって一番大事なもの。
子どもを産んだからといって急に、愛情だの本能だので万事OKになるわけない。
私は人だから、理性と知性で育児する。そう思えてから気持ちが楽になったし、私の中のブラックホールは小さく小さくなった。