近頃、息子はよく「さみしい」といいます。
私が浴室に入ってしまうと「さみしい」とドアの外で待っているし、ベランダで洗濯物を干していても「さみしい」とついてくるし、食事の支度をしていても「さみしい」と言い、レタスをちぎったり、粉チーズをふりかけたりするお手伝いをしてくれます。
家事は捗りません。
それにそんなにさみしいなんて、なぜ。
何よりもかわいい坊やが安心するようにと態度、言動に気をつけて、コミュニケーションをとり、できる限り一緒に遊び、ありったけの愛情を注いでいるのに。
息も絶え絶えなのに。
なのに。
「さみしい」
これは、独りよがりな私の愛情の敗北なのだろうか。
やはり私は育児に不向きで、これまで血反吐を吐きながらやってきた努力は無駄だったのか。
いや、そんなことはない。
絶対ない。
息子はとても良い子に育っている。
彼は毎日、今日も楽しくてたまらない、今日が終わってほしくない、眠りたくないと言う。
輝かしい笑顔を見せてくれる。
だから大丈夫。
「そんなにさみしいなら、ずっとずっとお母さんのお側にいたらいい。ずっとずっとくっついてればいいでしょう?」と私が提案すると、しばらく背中にぴたりと張り付いていた。
そして「まださみしい」と言った。
「お父さんに会いたいの?」と尋ねてみた。
「うん。それもある。でもあんまり関係ないと思う」
「保育園で何か嫌なのでもあった?」
「それはないよ。みんなただの子どもだから」
「さみしさはどこからくると思う?」
「脳と心臓」
「そう。お母さんと一緒にいてもさみしいのは困ったね」
「僕ね、僕はお母さんとは別な人間で、いつでも離れられるってわかってしまったんだよ。お母さんは僕のいない時にも僕のことを考えてる?忘れてるでしょう?お母さんもお父さんもお友達もおじいちゃんもおばあちゃんも、みんな結局ひとりぼっちなんだよ。僕は今はお母さんといるけど、いつでも離れらるひとりの男の子なんだよ。知ってた?」
「だから、さみしい?」
「うん。さみしい。宇宙に浮かんでるみたいなぼわぼわした気持ちになる」
「そうか。いつかどこかに行ってしまう?」
「うん。大きくなったらね」
「お母さんね、息子のことが大好きでたまらないから、ずっとお母さんと暮らしてほしいって思ってしまうの」
「お母さんは子どもっぽいところがあるからね。仕方ないね」
「あなたがさみしいと言うとどうしてあげたら良いかわからない。人間はみんなひとりだけど、でも一緒にいられるよ。心が通うよ。たくさんお話ししてたくさん一緒に遊べばさみしいの消えない?」
「マシにはなるよ。でも消えない」
「そうか。お母さんどうすればいい?」
「僕をずっと見てて。寝てる時も見てて」
「わかった」
「ありがとうね」
さみしさの正体は、人の根底にある孤独と茫漠とした不安だったのかもしれません。
思い出してみれば、子どもの頃って、世界がとてつもなく広くて、わからないことで溢れていて、今よりずっと、自分の存在はぽつりとしたものだった。
庭に落ちている石や、小さな蜘蛛や葉っぱについた雨粒が今よりずっと近く親しいものだった。
大人は違う生き物みたいだった。
息子はそこにいるのかな。
不安定で無秩序で孤独で、でもキラキラした世界。
私には戻れない世界。
吉原幸子の『日没』を思い出した。
日 没
吉原 幸子
雲が沈む
そばにゐてほしい
鳥が燃える
そばにゐてほしい
海が逃げる
そばにゐてほしい
もうぢき
何もかもがひとつになる
指がなぞる
匂わない時間の中で
死がふるへる
蟻が眠る
そばにゐてほしい
風がつまづく
そばにゐてほしい
もうぢき
夢が終わる
何もかもが
黙る