保育園の帰り、もうとっぷりと日が暮れている時間なのですが、私と息子は公園へ行きます。
まだ日の長い夏の間についた習慣が残っていて、2人ともその習慣を気に入っているからです。
夏の間は、虫を捕まえるために夕方の公園へと行きましたが、もう11月、夏の間はあんなに沢山いた虫は、もういません。
夏。あんなに明るかった夏。夕方6時。
蝉、バッタ、キリギリス、コオロギ、アゲハチョウ、モンシロチョウ、カマキリ、ヤブキリ、シジミチョウ…
息子はたくさんの虫を捕まえて、観察して、まあ野に放ちました。
彼は虫に優しくて、そっと捕まえて、じっくりと観察した後は必ずもといた場所に逃がします。
それを知っているかのように虫達は息子の周りに集まり、彼はそれらを虫取り網も使わずに、手でひょいひょいっと捕まえるのです。
両手で蝶々を2匹同時に捕まえることも度々あり、不思議な光景です。
そんな虫達も皆、卵を残し命を終えたり、寒さに備えて落ち葉や土の下に潜ったり、蛹になったりして、すっかり姿が見えなくなりました。
もう土の中にいるオケラの鳴く声が僅かにジージーと響くだけです。
そんなひっそりとした秋の公園を2人で手を繋いで歩きます。
月を見たり、星を見たり、落ち葉を拾ったりしながら、とりとめもない話をして笑い合います。
公園には私達の他には誰もいません。
冷たい空気を吸って、ふーっと吐く。
息子と手を繋いでいるのに、こんなにも笑い合っているのに、ああひとりぼっちだなあと思います。
街灯の下に蛾が飛んでいる。
「蛾よ。
なにごとのいのちぞ。うまれでるよりはやく疲れはて、
かしらには、鬼符、からだには粉黛(ふんたい)、時のおもたさを背にのせてあへぎ、
しばらくいつては憩ふ、かひないつばさうち。
やぶれたはなびらのふしまろび。とりすがる指の力なさ。末路王、肥えた閹者(えんじや)のなれのはて。すぎ去つた虚妄の夕照りにしかすぎぬゆくての壮麗に欺かれ、さそひ出されたもののむなしい遊行。蛾よ。
あゝ、どこにかへつてゆくところがある?」
昔読んだ金子光晴の詩の一節を読み上げてみる。
うんと若い頃、たくさんたくさん詩を読んだ。
身体の一部にしたくてノートにびっしり写した。
そんな頃があったんだよ。
孤独で途方もなくて、寄る辺なく漂っていた頃。もがくように蜘蛛の糸に縋るように文学に縋った。芸術に縋った。
お母さんにもそんな頃があったんだよ。
中学生だった、高校生だった、大学生だった、全部嘘、全部暴いてやる、全部手玉に取ってやると思っていた頃。
馬鹿でしょう。
でも楽しかった。
もう戻らない日々。過ぎた日々。
(この前ね、お母さんが昔昔に結婚していた人が亡くなったの。いつか、お母さんの全部だった人。その頃は神さまみたいに思っていた人。死んだの。あの人が死んだら私の若い頃を知っているのはもう私だけだなって思った。あの馬鹿馬鹿しい日々が消えるみたいな気持ちがした。時間はどんどん進むね。どんどこどんどこ進む。清々しいね。こうやって夜の公園を散歩したこと覚えていてね。いや、いいや、覚えていなくてもいいや。今、手を繋いで歩いているんだから、それでいいや)
結局何も言わずに、息子の柔らかな小さな手をきゅっと握りました。
「お母さん?どうしたの?泣いてるの?」
「泣いてないよ」
「泣かないでよ」
「うん」
「僕と一緒にいたら楽しいこといっぱいあるからね。泣くことないよ」
「うん」
終わって、また始まる、終わって、また始まる、終わって、それで私はまだここにいる。
大事なものと一緒にいる。
また始まる。何度でも。