朝、胸元に熊の絵の描いたトレーナーを渡すと息子が「これ着たくないな」と言った。
「そう?じゃあ別のお洋服を持ってくるね」と言って脱衣所に取りに行き、無地のシャツを渡すとパジャマを脱いで着替えた。
息子は熊のトレーナーを手に持って、そこにいるシロクマをしげしげと見ている。
「熊、かわいいね」
シロクマの可愛らしいイラストは息子のお気に入りだからそう言った。
「あのね。保育園にはこれもう着て行きたくないの。かわいいのは着て行きたくない」
「そう」
「いい?」
「もちろん。着て行きたいものを着ていけばいいよ」
「クマさんが嫌いになったわけじゃないんだよ。クマさんはかわいいから大好き。でも保育園のお友達が女みたいだっていうから嫌なの」
「そうなの。かわいいものが好きな男の人も多いと思うけど。その子はそう思うんだね。あなたはどう思う?女みたいって思う?」
「思わないよ。女女言ってからかいたいだけでしょ」
「だろうね。くだらないね」
「くだらないんだよ。でもね、お母さんは知らないかもしれないけど、くだらないことばっかりなんだよ。保育園って。くだらないことばっかり!でもね、くだらないこと言う子も楽しくていい子なんだよ。お母さんは知らないだろうけど」
「そう」
「お母さんはバカが嫌いなんでしょ?」
「好きではないね。お母さんはバカが嫌いってお父さんが言ってたの?」
「内緒。あのね。お母さん、バカが嫌いってことは人間が嫌いってことだよ。人間はバカばっかりだから。お母さんは人間が嫌いなの?人間は全部嫌いで僕だけ好きなんでしょ?」
夫と何を話したのか、バカなんて単語を息子の前で言ったこともないのに。
確かに私は人間不信なところがあって、もう誰にも会いたくないロケットに詰め込まれて死ぬまでひとり宇宙を漂いたいと息子を産む前は思っていた。
そんなだから息子がお腹にいるのに結婚したくない、ひとりが好きなの、あなたはたまに遊びにくればいいからと言って夫に泣かれたことがある。
すっかり忘れていたけど。
怖かったのだ。他人が。
他人と向かい合って傷つくことが恐ろしかった。とにかく逃げたかった。
「お母さんは僕とお父さんだけが好きなんでしょ?」
息子が私の頰を両手で挟みながら満面の笑みで聞いてくる。
「そうだね。あなたとお父さんは特別だから」
「だと思った!!」
息子はとてもうれしそう。ぴょんぴょん飛び跳ね私に抱きつく。
夫と何を話したのだろう。
息子を生んで、一緒に生活して、命を守ることを毎日考えている間に、私はもう人間が嫌いじゃなくなった。ひとりで宇宙を漂いたいとも思わなくなった。
バカもくだらないことも嫌いじゃなくなった。
いつのまにかうまくかわせるようになった。
愚かさを愛おしいとさえ思えるようになった。
自分の愚かさとも少しは和解できた。
でも他者を無闇に恐れて、逃げ惑い、宇宙をひとりで漂いたいと思っていた私もまだ私の中にいて、私を強くしたり弱くしたりする。
手負いの獣のような痛ましい激しいさを内包しても他人を愛せるのだから、私は生きててよかったのかもしれないと私の背中によじ登ってくる息子の温度を感じながら思った。