ここ何週間か寝る前に息子と昆虫図鑑を眺めるのが日課になっている。
世界各国の昆虫が載っている重く厚く、驚くほどに色鮮やかな昆虫図鑑は息子のお気に入りで、半月ほど前に偶然本屋さんで見つけた彼に「ほしい」とねだられて、その重さと値段(5500円ほど)に躊躇したものの、彼の熱意に負けて購入したのだった。
子ども向けの本ではないので、読んでやっても言葉遣いが息子にはやはり難しく、半分はちんぷんかんぷんなようだけど、「わからなくてもいいから、そのまま読んで。知らない言葉でもね、なんとなくわかるんだ。新しい言葉が僕の中に増えるんだよ」と言うので、そのまま読む。
「蝶は吸水が好きなようだ。水場には同じ種類のオスの蝶だけが集まってくる。水に含まれる塩分を目当てに吸水するといわれるが、本当はよくわかっていない。蝶の谷というところでは、渓谷の湿っぽい砂地や岩の上に、数え切れないほどの蝶が、何かに誘われるようち一箇所に集まった」
「蝶の谷、行ってみたいな」
「きれいだろうね」
「いつか、一緒に行こうよ。僕がもう少し大きくなったらジャングルにだっていけるから」
「どこにでも行けるね」
「そうだよ。どこにでも行けるし、僕は何でもできるようになるんだよ」
息子のきらきらした目。
子どもの目は日に何度も輝く。
好奇心で、希望で、嬉しさで、楽しさで、きらきらと。その美しさに圧倒される。
南の島の美しい蝶の鮮やかさにも引けを取らないその瞳の輝きに、思わず「いい子ね」と呟いてしまう。
あなたはとてもいい子ね。とてもいい子。
希望そのものみたいな。光そのものみたいな。
私は、息子と一緒に蝶の谷には行かないだろう。
私はこの図鑑に載っている鮮やかな、鮮やかすぎるくらい鮮やかな蝶達を実際に見ることはないだろう。
息子はこれからどんどん自分の世界を広げていくし、それに反比例して私の存在は息子の中でどんどん小さくなるだろう。
お母さんお母さんお母さんお母さんお母さんお母さんと一日中私を呼ぶ声も近い将来には確実に聞こえなくなることを私はちゃんと知っているから。
大丈夫。
それでいいし、それが健全だ。
息子はどこにでも行けるし、何にでもなれる。
私も。
息子が自立したら、また身軽になる。
どこにでも行けるし、何でもなれる。私も。
蝶の谷には行かないけれど、行きたいところには全部行こう。
見たいものを全部見よう。
一人で。
そして息子に話そう。
どんな物を見たのか、どんなことを考えたのか、どうしてあなたに話したいと思ったのか。
息子はきらきらとした目をして聴いてくれるだろうか。
図鑑を読み終わり、ベッド仰向けなると息子が電気を消してくれた。
「ありがとう。おやすみなさい」
「お母さん、おやすみなさい」
目を閉じると瞼の裏に蝶が飛ぶ。
燃えるような赤の、スカイブルーの、エメラルドグリーンの、色とりどりのおびただしい数の蝶達。
200年後とか300年後とかに私も息子も死んで、誰も私達を覚えていない世界でもこの蝶達は、蝶の谷を飛び回っているのだろう。
明るい日差しの中、同じ鮮やかさで、ひらひらと。
その景色が見えるような気がした。
隣で健やか寝息を立てている息子の白い頰が闇に浮かぶ。
死んだ弟の顔をうまく思い出そうとする。
虫の標本を怖がる私に「お母さん、虫はみんな絶対死ぬんだよ。虫だけじゃなくて、生きてるものはみんなみんな死ぬんだよ。知ってるでしょ」と息子は言った。
知ってる。
知ってるよ。
おやすみなさい。
だからあなたはどこにでも行って、なんでもしてほしい。
したいことを全部してほしい。
全部全部全部全部。
死は、あなたのそのきらきらの前では、なんの力もない。あなたの圧勝。あなたは光。大好き。