君が変わって、
私は悲しくなる
君が変わって、
私は怖くなる
君が変わって、
私はまた元気がでる
君がどういうふうに変わっても、
いつも面白く見える
先日、早稲田駅前でビッグイシューを買い、仕事の打ち合わせまでの少し空いた時間にカフェでパラパラの流し読みしていたらこの漫画を見つけました。
言葉少ない四コマ漫画。
読み出すと周りの音が遠のき、言葉だけが私に染み込みました。
夫のことを思っていたのです。
君が変わって、
私は悲しくなる
君が変わって、
私は怖くなる
君が変わって、
私はまた元気がでる
君がどういうふうに変わっても、
いつも面白く見える
双極障害になり変わってしまった夫。
発病当初、私は悲しくて悲しくて悲しくて手足に力が入らなくなり、眠れなくなり、食べられなくなりました。
病識がない躁状態の夫、私を敵視して無視するか暴言を吐く夫をなんとか医療機関に連れていかなければと、知識を得なければと奔走しました。
夫は躁状態の時とても攻撃的でした。イライラしているのが側から見てわかりました。「死ねよ」と言われ「お前がな」と返し、睨み合い、殴り合いました。何度も。
安定剤がないと眠れない日々が続き、食べられないので、体重は半月で8キロ減りました。
夫は仕事には行かずに毎日フラフラと外出します。病識はない。治療できない。息子はイヤイヤ期。
2000万以上の借金。
ここは地獄だと思いました。
なんてわかりやすい絶望だと。
そして躁の次は鬱。
夫は、自殺未遂、精神病院への強制入院を3回、しかし良くならず意識が混濁して意味のわからないことを言いながら徘徊するようになりました。
ああ、この人はもう治らないのかもしれないと思いました。
それでも閉鎖病棟の談話室で話す夫は夫で、私はなぜか絶対に大丈夫だという気持ちなのでした。
医者はいろいろ言うけど、そんなことより夫の姿を見れて話せて嬉しい。夫が喜んでくれてう 嬉しい。明日も明後日もこれから何度もお見舞いに来ようとウキウキしてさえいました。
もうあの閉鎖病棟の談話室で取り留めもない話をした日から2年経ちます。
今から思えば、私が夫への愛情のようなものを持ち続けたのは、意地もあったでしょうが、大きな理由としては、夫がどんな状態の時でと息子には親として責任を持って世話し、優しい言葉をかけ、息子も夫が大好きだったからだと思います。
意識が混濁して私のことを自分の母親だと思い込んでいる時さえ、息子のためにとバナナを一口サイズに切りテーブルに出している姿は忘れられない。
自分が今どこに居るのか、私が誰なのかもわからない狂った夫が息子の朝ごはんだよと笑顔でバナナを一口サイズに切り皿に盛っている姿を見て私は、ただただ夫に「大丈夫だよ、大丈夫だよ」と繰り返しました。
息子は保育園に行っており居ませんでした。救急隊の方がいらしたけれど夫の目には見えていないようでした。
そう、夫はずっと息子が産まれた時からずっとずっと私と同等、それ以上に育児をしてきたのです。
息子を並々ならぬ責任感と経済力、そして愛情で育ててきたのです。
これがあったから1年別居していても息子は夫が大好きだし、離れていても家族なのだと思います。
そして私も夫がどんな状態でも変わらずに大事だと言える。
今、夫は元気です。
あの頃よりは、ですが。
仕事にも毎日行っています。
相変わらず仕事はとてもできるようです。
私と息子はもうすぐ夫の家の近く引っ越します。
別居の継続は私からの申し出です。
だって離れていても、あなたが変わっても家族だから。
私にとって、あなたにとって、やり易い形を探しましょう。
病気が完全にあなたから遠ざかるまで。
何があっても大丈夫だから。