雨が降っています。
すっかり秋ですね。
今日は、前夫が私に会いに職場近くに来る予定です。
前夫はこれまでにも何度かこのブログに書いたことがあると思うのですが、私が大学2年生で付き合い出し、修士課程の時には一緒に暮らし、博士課程の時に結婚して、半年で離婚した大学の先生です。
その前夫が最近、月に何度か私に会いに来ます。
特に用はないようで、昼休み会いに来て一緒に食事をしたり、帰る頃に来て自宅までタクシーで送ってくれたりしながら、たわいない話をします。
たわいない、本当にたわいない話。
展覧会で観た絵の話。
レストランで食べたバジルソースがかかった大きなホタテが美味しかった話。
彼が画廊で会った画家が私の知り合いの知り合いだった話。
彼の甥が働く博物館の複雑な人間関係の話。
私は彼の口から止まることなく出てくるその何でもない話をぼんやりと聴きながら彼の骨が浮き出た手首を、口元の深い皺を、落ち窪んだ眼を眺めます。
共通の知り合いからは病気だと、悪い病気だときいています。
話をしながら何度も咳き込みます。
痰が絡んだ声。
見た目も、声もおじいちゃんみたい。
病気のおじいちゃんそのもの。
あんなにかっこよかったのに。
素晴らしく美しい顔だったのに。
均整の取れた厚みのある身体だったのに。
何百回と見た彼の裸体がフラッシュバックする。
美しい身体だった頃の彼の裸体。もう無いもの。2度とない戻らないもの。
この人は過去、何年も毎日一緒にお風呂に入って私の体を洗ってくれた人。
もうすぐいなくなる人。
過去と今が狭いタクシーの中でぐるぐるする。
ぼんやりする私の手を前夫が握る。
私はそれを振り払う。
私達はもうずっと前からそういう関係ではないから。
前夫は私のその仕草を愉快そうに笑う。
私も笑う。もう全部どうでもいいという気持ち。
笑いが収まり、前夫が私の顔をじっと見るので、「歳をとったでしょう」と言った。
私は歳をとった。
あなただけじゃなく私も歳をとって醜くなった。
彼は少し笑って、「きれいになったよ」と言った。
目を見開く私の手をもう一度握って「会ってくれてありがとうね」と言った。
この人はもうすぐいなくなる。
嘘つきで、女ったらしで、どうしようもない人。
才能があって何でもできて何でも持ってる人。
私を褒めてくれた人。
研究の仕方を教えてくれた。
自信をくれた。
今書いている文章だって、彼が書き方を教えてくれたから、未だに少し彼の書く文章に似てる。
タクシーを降りる時に「また会いに来る?」と聞いたけど、彼は答えなかった。
その目は私をもう見ていなかった。
ああ、この人はもう、過去から現実に戻ったんだなと思った。
だから私も安心して、現実に戻って、息子を保育園に迎えに行って、とてもとても大事だと伝えた。
みんないなくなる。私も。だから大事なものはうんと大事にしようと思う。