昨日から実家に帰省しています。
弟の四九日の法要があるからです。
息子は、弟の遺影と骨壷がある一画を見て「○○(弟の名前)死んだの?」と弟の骨に尋ねていました。
幼い頃の弟の顔に少し似ている息子。私が生んだ子ども。もうどこにもいない弟。命、茫漠たるもの。
弟の使っていた部屋には、彼の服が無造作にかけられ、ヘッドホン、iPhoneの空箱、仕事のシフトをメモした紙、内覧した部屋の間取り図、カバン、サンボマスターのCDなんかがそのまま置いてあります。
まるで昨日までここに居たみたいに。
弟の服からはまだ彼の臭いがしました。
本人はもう骨なのに変なの。
もう骨になって無臭なのに変なの。
骨壷の中の骨よりハンガーにかけられた服の方が弟に近い気がしました。
弟が命を絶つのに使ったであろうベルトが置いてありました。
生きている時に使っているのを見たことがあるな。
ロープを用意してしなかったってことは衝動的だったのかな。
計画的でも衝動的でも結局どちらでも助けられたんじゃないかと思ってしまうな。
それにしてもちょうどいいベルトだな。
ねぇこれいいね。使いやすそう。私がする時も貸してくれない?
いいよ〜僕はもう終わったから〜お姉ちゃん使って〜ってたぶん言ってくれるな。ふふふ。それなのにもう居ないのか。
変なの。
全然全然全然全然全然全然全然全然全然全然全然全然全然全然全然全然信じられない。
弟は感情を出すのが苦手だった。
苦手というか、自分が感情的になってもどうせ誰もきいてくれないと思っている節があった。
機能不全家族の優しいお利口さん。
だから弟が本当は何を考えていたかなんてわからない。
私に対しても優しいお利口さんという役割を演じていたのだろうから。
似た年恰好の男の子を見かけると、悲しいと思う前に涙が面白いほどダラダラ流れる。
ごめんねと思う。
かわいそうにと思う。
どうして私は生きているのだろうと思う。
今生きてる人、いつか全員死ぬのに死がこれほどまでに悲しいのはなぜだろう。
当たり前のことなのに。
弟か死んだこと、もう二度と会えないこと、それより、死を選ばざるを得なかった程に追い詰められていたことがかわいそうでならない。
そんな1人でさ、怖かっただろうに、もうこれしかないって思ってさ、そんなのかわいそうだよ。
かわいそうって思ってしまうよ。
生きづらかったのだと思う。
おそらく私以上にADHDの特質は強かったし。
難しいことが苦手だった。
母に溺愛されていた。
争いごとが苦手でいつもへらへらと笑っていた。
いつも誰かに叱られていた。
ちゃんとできないことを誤魔化すことも下手だった。
ボランティアに熱心だった。
水泳が得意だった。
努力家だった。
友達思いだった。
社会に適応できる人がいれば、同じだけ社会に適応できない人もいるでしょう?
適応できるのが、うまくやれるのが偉いとか優れているわけではないでしょう?
そんなのその人の一面に過ぎないでしょう?
社会なんてクソだよ。
別に適応する価値なんてないよ。
ねぇ、そうでしょう?
お姉ちゃん、僕、難しいことはわからへんねん。
ごめんな。
そう言うかな。
じゃあ、わかりやすく言うよ。
あなたはそのままでいい。
誰がなんと言おうと、どんな困ったことがあろうとそのままでいいんだよ。
死ねほど追い詰められてもそれでも何も悪くないんだよ。
ただ、助けてって言えるようにすればいいんだよ。
だからいかないで。