立春を過ぎてもまだまだ寒い日が続いていますが、皆様、風邪やインフルエンザは大丈夫でしょうか。
私と息子は元気に過ごしております。
昨日、保育園からの帰り道で、
私「なんかいいにおいするね」
息子「・・・カレーだ!」
私「カレーだね。カレー食べたくなる」
息子「カレー食べたい!」
私「ね、今日はもうお夕飯の支度してあるから明日はカレーにしようか」
息子「やったー!」
私「カレー~♪カレー~♪」
息子「何それ(笑)歩いてるとさ、人の家のご飯の匂いがする時あるでしょ?僕、好き」
私「お母さんも好き」
息子「一緒だね」
というやり取りがあったので、今日のお夕飯はカレーです。
ほうれん草とひき肉のカレーと大学芋、蜂蜜とキウイのラッシーという献立。
それでは前回の続きを書こうかと思います。
さて、まあ、前夫が生理的に受け入れられなくなったので離婚一択なのですが、離婚するとなると、それはもう大変なわけです。
前夫は3回目の離婚だったのですが、それでも精魂尽きたと後日語っていました。
弁護士を間に入れての家と家の話し合いの果てに、離婚が成立しました。
結婚生活において私がほぼ軟禁状態であり、前夫の友人による嫌がらせ(月に5~6回の頻度で突然自宅に来て「客にお茶もたてずに水を出すなんて、嫁として失格」「結婚式で旦那より目立つあんたを見てダメな嫁だとわかっていた」「仕事をしたいなんてわがまま恥ずかしくないのか、今ここで実家に電話してきいてみろ」などとほざく友人が前夫にはおり、彼の訪問がいつも苦痛だった。浮気を疑い尾行されたことも2度あり)があった事実が明らかになったため離婚はすんなりと成立しました。
離婚は望んでいたことのはずなのに、前夫の作った檻からやっと出られたのに、私はストレスで食事が摂れなくなりました。左耳が聞こえなくなりました。
19歳の頃から前夫は私の世界の全てでした。
その世界を自分で壊した後、自分の足で立つ方法がわからなかったのです。
私はペットだった。
野生の世界では生きられない。
どうして自我なんてもってしまったのか。
ずっとペットでよかったのに。
突発性難聴で緊急入院した先の病院のベッドで日がな一日そんなことを考えていました。
両親はお見舞いに来ては、「もったいない」「わがままだ」「きずもの」「考え直せ」と繰り返します。
弁護士から禁じられているはずなのに前夫からは何度か着信がありました。
メールも届きました。未練がましさのないメールが一通だけ。
確か、「先日、僕の誕生日にきれいな花束が届きました。送り主は君でした。君のことだから、ずいぶん前に予約して、それを忘れていたんでしょうね。沢山の野の花の花束は君らしくて在りし日を思って少し感傷的になりました。君は君の望むままに進んでください。1つだけ望むなら、死ぬときは君の腕の中で」といった内容でした。
前夫を愛おしいなと思いました。
人と人との関係で全部ダメなんて、なかなかないんですよね。
どんなに絶望的な関係の中にも一滴の光みたいな良い瞬間、なにか救われるような感覚がある。それが錯覚だとしても、本人にとってはその光は本物なわけです。
ハリボテの夫婦関係だったとしても、そのハリボテが私には必要だったのだろうと思います。
そう認めると、目の前は開けました。
病院のベッドで履歴書を書いて送りました。
何日か履歴書を書いて過ごしていると不思議と耳は聞こえるようになりました。薬が効いたのでしょう。
退院して、結婚している間は会えなかった友人達と会うようになると、食事ができるようになりました。友人たちは驚くほど優しく、誰も私を非難しませんでした。
あの時はどんなに救われたかわかりません。
食べ物が喉を通らなくてガリガリに痩せた私をみて、みんな食事に連れ出してくれました。友人たちと食べた食事はどれも驚くほどおいしくて、初めて食べ物を口にしたような気さえしたものです。
そして、契約職員ではありましたが、雪深い地方の大学図書館に就職が決まりました。
なんとか自立しようと早急に決めた就職先、引っ越した先はひどく田舎です。そんな片田舎の駅から徒歩30分、築15年の大学近くのワンルームのアパートはこれまで住んでいたマンションとは全てが違いました。
確か家賃は5万円ほど。
周りには何もなく、4月だというのに一面の雪景色です。
初出勤の日は、大学までの道をスノーブーツを履いて雪を踏みしめて歩きました。
眩しくて、何もなさ過ぎて、なんだか楽しい気持ちになったことを覚えています。
独りだけど、貧乏だけど、もう30歳だけど、好きだった仕事も研究ももうできないけど、でもなんか楽しいな、すごく楽しい!
私は今、楽しい。
だから大丈夫だと雪の中で思いました。
おしまい。