前夫と別れた30歳の私は、まっさらな状態になり、雪深い街に引っ越し、雪深い街の大学の図書館で働きました。
前夫と過ごした10年の月日は長かったですし、20歳から30歳という人生の中でもその後の価値観を左右する時期にべったりと一緒にいたものですから、ひとりになると着ていたものを全て剥ぎ取られたような心細さでした。
心象風景は、風吹きすさぶ荒野で全裸。
それに、誰かと共に暮らす喜びや煩わしさも彼に教わったものでしたから、その肌に染み付いた、他人と暮らすしみじみとした喜びや煩わしさを剥ぎたられたのが一番心にこたえ、別れて半年程は、毎日夕飯を作りながら、彼の帰宅を待っていた夕方6時になると、身体が料理を作りたがり、どこかで彼の帰宅を待っている自分に気がついて、ほとほとウンザリしたものです。
あの時間の寂しさは今もはっきりと覚えています。
雪深い街の安普請のアパートの薄っぺらいフローリングの床、窓から見える冬枯れした家庭菜園、何もない部屋をオレンジ色に染めるとても本当じゃないみたいに大きな夕陽。
全てを手放して、敵ばかり作って、寒い街に逃げてきた30歳の契約社員の自分。
あまりに頼りない自分。
将来なんて考えてられませんでした。
冷蔵庫の中には業務用スーパーで買った餃子とキムチ。どちらもケミカルな味がして食べられたものではなかった。
一口コンロでは料理もままならず、シリアルに牛乳をかけたものばかり食べていました。
シリアルを食べた後は、ソファもベッドもないから床に寝そべる。
ベランダにカラスが来て大きな声で鳴いている。
このカラスと人生交換できたらいいのにと思いました。
私には何もない。
清々しいな。
ここにいるのにいないみたい。
職場の人は皆、ほんとうに皆が皆、素晴らしく心優しい人々で、仕事はのんびりと楽しく、雪深い街はそれなりに居心地が良かったのですが、雪に閉された世界は美しくも退屈で、私はすぐに倦んでしまいました。そして東京の図書館の試験を受け、次の年には東京に帰ってきました。
単独での再上京。
まっさら、すっからかんのままの私は、もうどうにでもなれと馬鹿みたいにいろいろは男の人達と関係を持ち、酒を飲み、誘われるままにあちこちに出歩き、出会い別れ、完全に男は性欲に支配された猿、どうにでもできると間違った思い込みで万能感にかられ、めちゃくちゃにやって、めちゃくちゃになって、そんなクソ女だから、クソモラハラ男に捕まり、すったもんだがあり、そろそろまた結婚と思って、今の夫に出会い、出会ったその日に「一緒に生活したいです」と言って、なんやかんやあり、半年後には息子がお腹の中にいたわけです。
考えなしの愚かしい私。
でも最近思うのだけど、愚かっていけないことかなと。愚かは自由で楽しい。
幼稚なこと、無駄なこと、無為なこと、ノイズ、これからを切り捨てないきたけど、豊かさの核みたいなものが、ここにはあるんじゃないかなって思う。
育児をしていると、本当に子どもって無駄なことしかしなくて、オムツをお風呂一面に浮かべたり、トイレットペーパーをどれだけトイレに流せば詰まるか実験したり、蝉の抜け殻を湯がいてみたり、そこに生産性なんて全くないし、よくもまあと思うくらいバカバカしくて無駄なことをするから、楽しそうにするから、そこに大事な宝物が埋まってるんだろうなと思うようになって、そして、自分の過去の愚かしい行いも、あれはあれで、良しと受け入れられるようになって、めでたしめでたしのとっぴんぱらりのぷう。