「どうして人は別れると思う?」
恋人の家の心地よい浴室でさっき言われたことを考える。
「ここは窓があるからいいね」
もう何回か言ったことがあることを初めてみたいに気にせずに口に出す。今またそう思ったから。
私は人との別れに興味がない。今そこにいる。それで全部。
ここは窓があって光がさして、広くて、柔らかな大理石の大きなバスタブはとても気持ちいい。
恋人は「窓があるからここにしたんだ」とこれももう何回目かのいつもと同じ返答をする。
私達は微笑み合う。お互いが寛いでいることがわかり、それが心地良い。
多忙な恋人と幼い子どもがいる私なので頻繁には会えない。今日は歯医者の帰りの僅かな時間の隙間に彼の家に滑り込んだ。
ドアを開けて私の顔を見た瞬間の子どものように輝く笑顔に存在を肯定されたような気持ちになる。母親ではない私の存在。誰の世話もしない私を認めてほしくて私はここにくるのだと思う。
なんの役にも立たない。私はここでほとんど何もしない。セックスもあまりしない。料理も作らない。ぼんやりと恋人が仕事する背中を見て、眠くなれば膝枕でうとうとと眠り、とりとめもない話をずっとしている。
互いの仕事の話とか、絵や花や生や死や欲や勇気の話なんかを。
話すのは楽しい。
恋人が「ここは監獄だ」と言う。これももう何度目かのこと。
私は「うん」と答える。いつも。だってそれを自分で選んでることを知っているから、いたくて監獄にいるんだとわかってるから「うん」と答えて背中をさする。赤ちゃんにするみたいに優しく優しく、おでこに手を当ててその熱を愛おしいと思う。
「冷たくて気持ちいい」
「うん」
「ありがとう」
「うん。今日、マイバスケットで東マルのうどんスープを探したのだけど、トップバリューのしかなくて悲しかった」
「買わなかったの?」
「うん」
「中身はおんなじだよ」
「そうなの?じゃあ次は買う」
「はは、そんなに人の言うことをすぐ信じたらだめだろ」
「そうなの?」
「なあ、きみは人はどうして別れると思う?」
「知らない」
「信じるから」
「そうなの?私ね、この前人にあなたのことどんな人って訊かれて、まだ誰も踏んでない雪原みたいな人って答えたの。うれしい?」
「はは、やばいね。汚れたこともしてるよ。知ってるでしょ。汚いことばっかりだよ」
「心は雪原でしょ」
「そうありたいね」
「無自覚にイノセントだからあなたは人を惹きつけるんだと思う。たくさんの人を。誰にも踏まれてない雪原はね、凶暴で無邪気で無情なの。自然はきれいなだけじゃない。恐ろしさと美しさが同居してる。そこにひとは溺れるんだと思う。メッキの部分があるのはみんなそうだもん。メッキの汚れなんてとるにたりないよ」
「ありがとう。僕のこと信じてる?」
「うん」
「そうか」
「うん」
安穏。この人は私を受け入れている。ここにいるだけのいつかいなくなる私を。
私はこの人と別れても寂しくないだろう。悲しくないだろう。
また別な窓のある浴室で違う恋人に「ここは窓があるからいいね」と言うだろう。
その時あなたのおでこの熱を思い出すかもしれない。