いい母親になりたい。
優しい母親になりたい。
息子と仲良く暮らしたい。
話をよく聴いてあげる母親でいたい。
イライラしない母親でいたい。
意地悪な声なんて出さない母親でいたい。
まして怒鳴るなんてとんでもない。
そう思っていた。
そう思っていたのに。
保育園が休園になってからもう1ヶ月以上仕事をしながら息子と一緒に自宅で過ごしている。
何回「ちょっと待ってね」と言っただろう。
待たせたくない。
ワクワクした顔で私に見せてくるレゴを工作をお絵かきを笑顔で受け止めたい。
それがたとえ2分に1回でも。
「お母さん今お仕事してるからお話できないって言ったよね?」
イライラした声に息子の笑顔が萎む。
ああやってしまった。
私は野原で可憐で美しい花を踏みつけた気持ちになる。
花は無残に散り、私の足の裏には花びらがこびりつく。その花はもうどこにもない。どこにも。
着信があり出ると上司が要領を得ない話をする。話が長い。無駄が多い。お前の時間は無限か。
適当に相槌を打ちながら息子に目を向けると、画用紙いっぱいに自分と私の絵を描いている。
私が喜ぶと思って描いているんだと思うとたまらない。
あなたは誰にも媚びるべきじゃない。
私の機嫌をあなたは取るべきじゃない。
そんなことやめて。
そう言いたい。
でもそんなことさせてるのは私だ。
私の態度が息子に媚びることを覚えさせてる。私にとって都合の良い、聞き分けの良い、扱いやすいかわいい坊やになってほしいと思ったことなんてないのに。
ごめんね。
電話を切ってから息子と一緒にお絵かきをした。息子はたくさん笑った。仕事はこの子が寝てからすればいいやと思った。
めでたしめでたし?
でもそんなにうまくはいかない。
就寝時間になっても眠らない息子が「ピンクの色水を作って凍らせたい」と言い出した。
「ピンクのお水が凍ったらどんな色になるのか見たい」と。
好奇心。
教育者達がこぞって大切に育てるべきだと唱える子どもの好奇心。
これまで読んだ数多の育児書の好奇心についての記述がフラッシュバックする。
岩波新書の『幼児期』とか『学びとは何か』とか。
ネットで読んださかなクンのお母様の教育法とか。
小児科の待合室で読んだプレジデントベイビーの東大生の母親が幼児期にやった教育特集とか。
23時。
重い体を引き摺り絵具とバケツを用意して、私は息子とキッチンでピンクの色水を作った。
青いバケツに水彩絵の具で色付けたピンクいろの水がタプンタプン揺れている。息子は「発明だ」とはしゃいでる。
かわいいなと思う。
かわいいなと思ったのに、思えていたのにピンクの色水を持って冷凍庫に入れようとした息子が色水をあらかた溢してしまった。
息子のパジャマも冷凍庫の中もフローリングの床もピンクの色水でびしょびしょ。
「ちょっと、何してるの!どうしてしっかり持たないの!はしゃいでふざけてるからこぼすんでしょ?いい加減にしてよ!」
ああ、まただ。また私は。また私は。花を踏みつけた醜い足で。
いい母親になりたい。
優しい母親になりたい。
息子と仲良く暮らしたい。
話をよく聴いてあげる母親でいたい。
イライラしない母親でいたい。
意地悪な声なんて出さない母親でいたい。
まして怒鳴るなんてとんでもない。
「ごめんなさい…」
息子の目は涙でいっぱい。
「お母さんも大きな声でごめん。ごめんね。優しくできなくて。ごめんね。もう寝て来てくれる?」
コクリと頷くと息子は寝室に行った。
しょんぼりした背中がかなしいけど、イライラもまだある。
イライラしながらも、わざと溢したわけじゃないのに、私だってミスはするのに、こんなに叱るなんて私は悪だと思うと泣けてきた。
泣きながらもイライラしていた。
もう毎日疲れているから、これからまた仕事をしなくちゃいけないから、こんな自分が嫌だから。
ピンクの色水を拭きながらびしょびしょに泣いた。
そして朝方まで仕事して、もう疲労で頭がグラグラして喉が張り付くけど、最後の力を振り絞ってピンクの色水を作って冷凍庫に入れた。
朝起きた息子が喜ぶようにというより、これ以上自分を嫌わないために。
朝日がリビングを照らし、疲れた頭でピンクの色水を作っているとタプンと揺れるそれは夢のように美しく見えた。
「きれい」
と口に出して言ってみた。
次の日から高熱が1週間続きあまりにフラフラで冷凍庫を開けることが出来なかったので、ピンクの色水はまだ冷凍庫の中にある。
息子はピンクの色水のことなんてすっかり忘れているみたいだけど、明日一緒にみてみようかな。